陸奥イアン陽之助 陸奥イアン陽之助
Start
イントロダクション
陸奥イアン陽之助
陸奥イアン陽之助

「日本を世界に伝える」


陸奥イアン陽之助の生涯は、そのことに捧げられた。


祖父、陸奥宗光は、第二次伊藤博文内閣の外務大臣。不平等条約の改正や日清戦争における「陸奥外交」で知られえる通称「カミソリ大臣」。


父、陸奥廣吉も外交官。日英博覧会の開催に尽力して日本文化を広く世界に伝え、日本国内においては、芸術文化の振興、日本人女性の教育と地位の向上に務めた。


母、陸奥イソ(エセル・パッシングハム)は英国出身。廣吉と大恋愛の末に結婚。文学、芸術に深い造詣を持ち、「KAMAKURA FACT AND LEGEND」を著し、陸奥家ゆかりの鎌倉を世界に紹介した。


「日本を世界に伝える」それは陸奥家のDNA。

祖父
外交の父、陸奥宗光
陸奥宗光

外務省の敷地に大きな銅像が立っている。
近代日本の外交黎明期に多大な功績を残した外務大臣、陸奥宗光。インタナシヨナル映画社創業者、陸奥イアン陽之助の祖父である。


弘化元(1844)年、陸奥宗光は、紀州藩士伊達宗広の六男として生まれた。幼名のひとつが陽之助(ようのすけ)。14歳で江戸に出て、坂本龍馬や伊藤俊輔(後の伊藤博文)、桂小五郎などと交流し、文久3(1863)年、勝海舟の神戸海軍操練所に入所、慶応3(1867)年に海援隊に加わった。


坂本龍馬からは可愛がられた。龍馬は宗光を高く評価し、「大小をはずしても(刀なしでも)食っていけるのは、わしと陸奥だけ」と公言していたという。龍馬が暗殺された時は、血気はやった宗光が、紀州藩士三浦休太郎を暗殺の黒幕と思い込んで、海援隊の同志15人と共に天満屋に襲撃するという騒動を起こしている。

後に明治新政府に参画するが、西南戦争における政府転覆計画に加担したかどで、明治11(1878)年収監される。4年間の獄中生活で、宗光は200冊に及ぶ読書や、イギリスの功利主義哲学者ジェレミー・ベンサムの著作の初の和訳(出獄後、刊行)を行った。


明治17(1884)年、41歳の宗光は、欧米諸国の近代的な政治機構を学ぶために欧州に留学。明治21(1888)年、駐米公使となり、同年、駐米公使兼駐メキシコ公使として、日本最初の平等条約である日墨修好通商条約を締結した。


明治25(1892)年、第2次伊藤内閣に迎えられて外務大臣に就任。

イギリスとの間に 幕末以来の不平等条約を撤廃し、日英通商航海条約を締結した事を皮切りに、以後3年間で、米、独、伊、仏をはじめ、不平等条約を結んでいたすべての国との間に条約改正を成し遂げた。


明治27(1894)年に勃発した日清戦争では、イギリスとの協調を維持しつつ対清強硬路線を進め、「陸奥外交」の名を生んだ。明治28(1895)年、全権として下関条約を調印。有利な条件で戦争を終結させたが、露、独、仏の三国干渉に対しては、国力の差を冷静に見極め、遼東半島を清に返還した。日清戦争の功により、伯爵に陞爵。


戦後は日清戦争の経緯を「蹇蹇録」に著し、「おのれの外交というものは『その進むを得べき地に進み、その止まらざるを得ざる所に止まりたるものなり』と書いている。「蹇蹇」とは、易経にある言葉で、「臣が一身の利害をかえりみず、苦心惨憺して忠節をつくす」という意味。
明治30(1897)年8月24日、肺結核のため死去。享年54。

明治40(1907)年、没後10年を記し、条約改正や日清戦争の難局打開に関する功績を讃えて、外務省に銅像が建立された。

幼少時代
父、母、そして陽之助
陸奥イアン陽之助 6際の時鎌倉にて
陸奥イアン陽之助 陽之助と友人(草刈氏)・暁星卒業の頃

明治2(1869)年、陽之助の父、廣吉は宗光の長男として生まれた。


19歳で英国のケンブリッジ大学に留学。寄宿先のバッシングハム家の長女エセルと、相思相愛の仲となる。廣吉はエセルと出会ってから、彼女と過ごした時間を日記につけ始め、それは生涯50余冊に及んだ。帰国後、英国人エセルとの交際は、宗光に強く反対された。


日清戦争で翻訳官として活躍した廣吉は、明治28(1895)年、試験に合格して外交官となる。米国に赴任中、宗光重体の知らせを受け帰国。爵位を継ぐ。


明治32(1899)年、廣吉はサンフランシスコで、エセルと5年5ヵ月ぶりに再会。華族であるため正式に結婚できず、ひとまず英語教師として日本に呼び寄せる。明治38年(1905年)ようやく勅許が下り、晴れて2人は結婚した。


日本国籍を得て伯爵夫人となったエセルは日本名をイソとした。その後、廣吉は英国日本大使館の一等書記官となり、夫婦として初めてロンドンで暮らし始める。


明治40(1907)年、2人の間に陽之助が誕生。明治43(1910)年、廣吉が心血を注いだ日英博覧会が開催。陽之助の子供時代の最初の記憶は、この博覧会場の情景だった。


帰国後の明治45(1912)年、陸奥一家は、美しい自然と歴史文化に恵まれた鎌倉に移り住む。1500坪の敷地に小農園やテニスコートまでも持つ家で、陽之助はのびやかに育った。


大正4年(1915年)、廣吉は健康上の理由から外務省を辞職。
日本に骨を埋める決意をしたエセルは、日本の素晴らしさを外国に伝えるべく、廣吉の協力を得て「KAMAKURA FACT AND LEGEND」を書き上げる。小さな陽之助は自転車に乗って、母の寺社巡りのお伴をしたという。


陽之助は10歳でフランス系カトリックの暁星小学校に入学。以後、中学卒業まで、週日は母と東京で暮らし、週末、父のいる鎌倉で過ごす生活が始まる。その後、早稲田高等学院に入学するが、母からバイオリンの手ほどきを受けていたこともあり、音楽の道に進みたいと思い始める。


大正14(1925)年、陽之助は指揮者を目指すため、また英語を磨くため、ヴァイオリンケースを片手にロンドンへ渡る。そして有名な作曲家サー・グランヴィル・バントックの邸宅に住み、彼が院長を務めるミッドランド音楽院のクラスと、バーミンガム大学の英文学クラスの両方に入学。


5年間に渡る英国での留学生活は、実に楽しく実りの多い歳月だったと陽之助は後に回想する。


昭和 5(1930)年、母の死去の知らせが届き、陽之助は帰国の途につく。その途中の船中で、ロッド・ペインという米国人記者(ジャパン・アドバタイザー)と出会う。この出会いが、陽之助をジャーナリストの道へと進ませる事となった。

記者時代
国際ジャーナリスト。そして...
陸奥イアン陽之助 同盟通信時代 アシスタント山垣氏と
陸奥イアン陽之助 UP時代 吉田茂首相を取材中

昭和5(1930)年、23歳の陽之助はジャパン・アドバタイザー社(現ジャパン・タイムズ)に入社。国際記者としてのジャーナリストの第一歩を踏み出した。


当時、日本における英字紙記者、特派員の多くは欧米人であり、陽之助のように日本国籍を有し、英米の事情に明く、英文記事を自由闊達に書ける記者は稀だった。陽之助は海外のニュース記事を手がけながら、紙面を通じて日本文化の紹介にも努め、後に編集次長となる。


世界は折しも大経済恐慌の最中。活路を大陸に求めた日本は、満州国の樹立、国際連盟からの脱退、日中戦争開戦と、加速度的に国際社会から孤立して行った時代である。長身で碧眼、一見西洋人の陽之助は嫌でも衆目の的となり、取材中スパイ疑惑で憲兵隊に拘束されたこともあったという。


昭和14(1939)年、同盟通信社(現共同通信)に入社。昭和16(1941)年8月、海外部部長となる。


昭和16(1941)年12月8日、「おやじの国とおふくろの国」が戦争になった。次第に厳しさを増す検閲に嫌気がさし、昭和18(1943)年、同盟通信社を退社。終戦まで軽井沢に隠匿した。


昭和21(1946)年、当時米国UP通信社アジア総支配人だった旧友マイルズ・ボーン氏と再会。氏に誘われてUP社に入社。東京支局ニューズ部長を務め、吉田茂首相を始め多くの要人を取材した。


昭和24(1950)年、陽之助はマイルズ・ボーン氏と東京湾に鴨猟に出かける約束をしたが、急用で行けなくなった。そしてそれがボーン氏との永遠の別れとなる。乗っていた船が大波に飲まれ転覆。ボーン氏は死亡した。


国際ジャーナリズムに功績のあったボーン氏、氏と共に遭難死した元電通社長の上田碩三氏を悼み、ボーン・上田記念国際記者賞が創設されたのはその翌年の事であった。


UP時代、陽之助にあるアイディアが浮かぶ。


戦時中、米国が撮影したニュース映画。ここから対日戦の部分を選んで買い取って編集し、一本のドキュメンタリー映画を作る。フィルム1フィートにつき10セントで購入し、それをつなぎ合わせて1時間20分の長編ドキュメンタリーを制作した。


題名は「日本やぶれたれど」。ナレーションは徳川夢声。題名の「〜たれど」に日本再建への願いを込めた。


「日本やぶれたれど」は、昭和23年に東宝系で全国公開されるや、敗戦の虚無感に暮れていた当時の日本人の共感を呼んで大ヒットとなり、当時の有楽町日劇が満員札止めとなるほどの盛況だった。


「日本敗れたれど」の成功は、陽之助にある確信をもたらした。「日本のことをより広く海外に知ってもらうには、新聞やラジオよりも、映画のほうが良い。」


国際ジャーナリスト陸奥イアン陽之助が、フィルムメーカーとして次の時代への一歩を踏み出した瞬間だった。

日本を世界へ
インタナシヨナル映画株式会社の創立
陸奥イアン陽之助 作曲家団伊玖磨氏と
陸奥イアン陽之助 カメラマン達と

昭和27(1952)年2月、陽之助はインタナシヨナル映画株式会社を創立。


BBC、UP、MGM、ABC、ドイツZDFなど、海外映画社11社の日本支局として日本紹介のニュース映像を海外に送った。当時、日本から世界に向けて発信されたニュース映画の約8割は、インタナシヨナル映画社によって配信されていたと言われる。


時代は東西対立の種火が朝鮮半島で発火し、戦争景気の順風に後押しされた日本が高度経済成長時代へと進みつつあった頃。インタナシヨナル映画社からも、陽之助をはじめ多くのカメラマンが、朝鮮半島の戦場へと派遣され世界各国へニュース映像を送った。


ニュース映画を配信する一方、陽之助は日本文化を紹介する多くの映画を企画・製作。高度経済成長で勢いづく日本企業を世界へ紹介する事にも力を注いだ。


中でも、インタナシヨナル映画社制作の映画「シンフォニージャパン」は、当時の日本の経済発展を海外の人々に強烈に印象付ける。


ナレーションはなし。写真家大竹省二氏の映像美と、作曲家団伊玖磨氏の重厚な音楽で綴り挙げたこの作品は、ローマ国際テレビ映画祭で金賞を獲得する。


映画「シンフォニージャパン」は、外交一筋の父方から受け継いだ使命感と、芸術に造形が深かった母から受け継いだ繊細な感性を持ち合わせた陽之助であったからこそ、世に送り出す事ができた作品であろう。


昭和36(1961)年、陽之助が外務省に持ち込んだ海外広報映画企画「Japan Screen Topics」の製作が開始される。これは後に「Japan Video Topics」と名を変え、日本の現在を世界に発信し続けている。


陽之助は海外テレビチームの招聘事業にも力を注いだ。
「海外のテレビチームをサポートし共に行動する事で、海外の人々がどのように日本を観ているかが分かる。」と考えたからだ。この事業も現代に受け継がれ、毎年、多くの海外テレビチームが日本を訪れている。


「常に海外の人々の視点で日本を見よ」これが陽之助の口癖だった。
かつて「おやじとおふくろの国」が戦争になったとき、互いに理解し合うことの大切さを痛感した。海外の人々を知り、海外の人々の視点で考えることで、「日本人と外人」の垣根を越えて相互の理解を深められる。


陽之助は晩年、ある新聞のインタビューにこう答えている。
「いまや軍事力よりも対外PRが武器になる時代。とくに日本に外圧が及ぶ時には、まず日本を外の世界に知らせる努力が必要です。この分野がなおざりにされていることに関心が高まってほしいですね。」


創立者、陸奥イアン陽之助は今も当社の玄関に陣取り、出社する役員社員を迎えている。一見エレガントな英国紳士。その写真の口元が静かに微笑みながらこう言っているように思える。


「お前ら、ちゃんと日本を世界に伝えとるか?」

思い出の写真
オヤジとの日々/山地久造(元インタナシヨナル映画社専務取締役)
元弊社専務取締役 山地久造氏

陸奥イアン陽之助公式サイトを立ち上げるにあたり、元弊社専務取締役である山地久造氏に、懐かしい写真を見ながら当時を振り返ってもらった。

山地久造氏は昭和4(1929)年生まれ。御歳85才とは思えない程かくしゃくとしており、寒い日にも係らず約束の時間前に来社された。聞けば「早く着き過ぎたので、小1時間周囲を散歩していた」との事。実にお元気である。



「映画には興味ありません。」

昭和28(1953)年3月、共通の知り合いの紹介で受けたオヤジ(陽之助氏)との面接で、山地氏は開口一番そう切り出した。「私は貿易をやりたいんです。」「じゃあ貿易部を作ろう。」これで採用となった。同年の5月に入社。インタナシヨナル映画社創立翌年の事である。


長野県松本市の白樺細工の輸出から始まり、関税のこと、法律のこと、全て自分で勉強し貿易業務をこなした。しかし、貿易の仕事はそれほど多くなく、仕事のない時は映像製作のデスクワーク。当時は珍しく運転免許を持っていたため運転手にも引っ張られ、米軍払い下げのジープでカメラマンを現場に運んだ。

インタナシヨナル映画時代の山地久造氏

カメラマンとして

忘れもしない、昭和33(1958)年。カメラマンが風邪で撮影に行けず、オヤジに代役を命ぜられる。「そんな事言ったって社長、フィルムの装填もできないのに」と訴える山地氏にオヤジは一言「そんなの10分もあれば覚えるだろう」とスマしていたと言う。


撮影の基本は「七五三」だと先輩カメラマンに教わった。ワイドショット7秒、ミディアムショット5秒、クローズアプが3秒。今のようにカードに何十分も撮れる時代ではない。100ft・1分のフィルムの現像が「新卒の給料」と同額だった頃の話。「ニュースカメラマンはカメラマンであると同時に監督でなくてはならない。」山地氏の持論だ。

歌舞伎の恩人バワーズ氏と

金の鯱事件

あるとき名古屋城で新しい金の鯱を天守閣に載せる工事の撮影で、フィルムを500ft回した。会社に帰ると「撮影のポイントが分かってないからそんなに回すんだバカモン!」とオヤジの雷が落ちた。


「500ftつったってさ、5分だよ」山地氏は昨日の事のように唇を尖らせる。「運ばれて来たとこ撮ってさ、クレーンでつり上げるとこ撮って、それで天守閣までカメラ担いで駆け上がってさ、据え付けるとこ撮ってたら、そりゃあ、500ftくらいなるよ。」そして次のように苦言を呈した「今なんか3分でいいものに、1時間もまわしてるじゃないか。」


現役カメラマンの筆者には実に耳の痛いお言葉である。

オヤジから学んだこと

日本語英語両方に堪能であったオヤジだけに、海外向けの映像製作に関しては非常に厳しい目を持っていた。


「海外向けって言うのは、ただ言葉を翻訳すれば良いってもんじゃないんだよ。」山地氏は強調する。

「そもそも国内向け、海外向けでは撮影するショットからして違う。まず海外の事を知って、海外の人々の感覚で物事を見る。『日本人と外人』ではない。海外には多くの文化の異なった人々がいるんだ。そういう人々を知り、彼らの感覚を理解して作らないと伝わらない。これはオヤジから学んだ事。」


そんな山地氏をオヤジも息子のように可愛がった。仕事、プライベート、関係なく良く呼びだされた。当時、独身だったオヤジの遊びのお供もずいぶんさせられた。「外国人記者クラブの食堂で良くご馳走になったなあ。当時は食料事情が良くなかったから、これは有難かったね。」


「オヤジは外国人記者クラブ創立時からのメンバー。
当時の外国人記者クラブの食堂には吉田茂元首相の子息健一氏も良く出入りしていたと言う。


オヤジからサプライズで香港旅行をプレゼントされた事もあった。


「でも所詮、向こうは伯爵。こっちは平民。我々と考え方がまるで違う。世の中の歩みよりも、常に先を行っていたから、多々ギャプがあったね。ボクなんか専務取締役なんて言ったって、実際は番頭ですらなかった、丁稚だよ丁稚。」憎まれ口をきく山地氏だが、オヤジの話をする彼の表情はとても楽しげである。



陸奥イアン陽之助 ロバート・キャパと

懐かしい写真1 〜ロバート・キャパ

ポケットに手を突っ込み助手でも見据えるようなオヤジの横で、どこか神明な表情でカメラを持つのは、あのロバート・キャパだ。
昭和29(1954)年、来日していたキャパと天皇誕生日に皇居で遭遇した時に山地氏が写した一枚である。


その時オヤジはキャパが誰かを知らなかった。「社長、ロバート・キャパだよ、側に行って何か喋ってよ。」そこでパチリ。するとオヤジは「まるで十年の知古に会った」かのようにキャパと話し始めたと言う。


ロバート・キャパはこの三週間後に北ベトナムで死亡する事になる。これはベトナムに行く直前のキャパを捉えた貴重な写真だ。キャパがこの時、オヤジをどう思ったかは、謎のままである。

インタナショナル映画創立の頃

懐かしい写真2 〜黎明期の人々

こちらは30名程が並ぶ白黒の集合写真。服装からして冬だろうか。山地氏は昭和27年に撮られたものと断言する。当社が創立した年である。残念ながら山地氏はここには写ってはいないが、氏の思い出に残る人々の顔がある。


「これは野畑さん(写真1番左)。オヤジのお父さんの執事だった人。お母さんが日赤の看護婦だった。この時は総務部長だったと思うな。」
「これは柾木四平(左から3人目)、製作部長で製作全般を仕切っていた人。」
「これは石井カメラマン(前列でしゃがんでいる1番左)。うちを辞めて確かCBSに行った。その後ベトナム(戦争)に(取材に)行って亡くなった。」
「これ浅井達夫さんね(再後列右から2人目)。ラバウルでイ号作戦の攻撃隊を見送る山本五十六元帥を撮った人だよ。その後、元帥は飛行機で視察に出かけて戦死しちゃった。」


「当時うちは、BBCだのMOVIETONEだの多くの支局をやっていたから、カメラマンも多かった。朝鮮戦争にもずいぶんカメラマンを送ったよ。ボクはUPの映画カメラマン。で、UPの写真部には後にベトナムで死んだ沢田教一がいた。彼とはしょっちゅう喧嘩してたな。」



インタナシヨナル映画への想い

後にカメラマンからプロデューサーになった山地氏は、日本の首相を世界に紹介する番組を担当。歴代首相の日常の姿を撮影して世界中に発信した。
インタナシヨナル映画一筋に50年。「渡辺一家」「シンフォニージャパン」など、インタンシヨナル映画社全盛期を通して、オヤジの右腕として「日本を世界に伝え」続けた。


「うちは公序良俗に反する事は一切やってない。それは胸を張って言える。それからスポンサーの意向は必ず守って、独りよがりな映像製作は決してしなかった。だからこれだけの歴史がある。何より、『海外向けはインタ』だという自負があったね。」


「今の人達には、62年という歴史ある会社、陸奥イアン陽之助の創設した会社だという誇りと自信をもって頑張って欲しい。」


オヤジの思い出話は尽きない。

ギャラリー

Produced by インタナシヨナル映画株式会社

このサイトに関するお問い合わせは、インタナシヨナル映画までお願いいたします